スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 | ↑top
フジミ回顧録「春の嵐」 
2008-07-19 Sat 22:36
引続き「富士見二丁目交響楽団シリーズ」で泣けた話なんですが、一番の思い出は、実は原作ではなくてCDでした。それもマガジン・マガジンのドラマCDではなく、悠季:堀川亮さん、圭:安井邦彦さんのソニー版イメージ・アルバムの方です。ドラマCDの方は、悠季:置鮎龍太郎さん、圭:増谷康紀さんで、こちらを聴いてらっしゃる方のほうが多いかもしれませんが・・・。

パソ通でフジミを知ったと毎度書いてますが、そもそも話のキッカケは堀川亮さんでした。当時ドラゴンボールにハマっていて、登場人物の中では特にベジータが好きだったんですが、アニメでその声を担当されてたのが堀川さんだったんです。声優さんには詳しくなくて、堀川さんが他にどんな役をされているのか全く知らなかった私に、パソ通仲間が色々と教えてくれました。その中で一番驚いたのが悠季の役でした。

その時紹介された原作小説「フジミ」にとても興味をもって、読んでみたらハマった訳ですが、CD聴くならソニー版ということで、置鮎龍太郎さんの悠季はレンタルで見たOVA以外聴いたことがありません。ちなみに他のBL系CDも、フジミのドラマCDも含めて全く聴いた事がないんです(^^;)

ところで、悠季とベジータってもの凄くギャップがあると思ったんですが、実際に聴いてみると堀川さんは全くの別物に演じてらしたので(って当たり前ですが)、堀川悠季に違和感はありませんでした。そして何枚か聴いた中で、悠季のしみじみと語る場面が印象に残ったのが『春の嵐』(97年3月発売)でした。

97年といえば、原作文庫は悠季の日コン挑戦が書かれた『アレグロ・アジタート』が出た頃で、このCDもその頃を想定している様子でした。シチュエーションは、M響の地方公演に出かけた圭と留守番の悠季が、電話でのやりとりをするという設定です。

「きみと出会った頃の事を思い出していました」という圭に、
「ならほんの1年前の事じゃないか」と返す悠季・・・。
圭 「僕にとって、きみと出会う前の事は、10年も昔の記憶のようです。きみと出会うまでの僕は、どうやって毎日を生きていたのか、もう思い出せないくらいだ」

悠季 「そうだよなぁ。僕としては、きみと出会う前の僕って、孤独な奴だったなぁ、ってね、思う。あの頃はそんなふうに思ったことはなかったけどさ、今から思うと、よくあんなに一人ぼっちでやってたなぁ、って・・・」

圭 「では、お互い出会えてよかったということで」

悠季 「うん。もしきみと出会ってなかったら、僕は一生孤独なままで過ごしちゃったじゃないかと思うよ。そりゃ、友達付き合いとか、たぶん結婚もいつかはしただうけど・・・。でもそういうのって、その人間が孤独かそうじゃないかとは、あんまり関係なくってさ。何ていうか、ほら、誰との関係も付き合いまでにしちゃうっていうか…。

心の底まで曝け出す人間関係って、自分からは作れない人間でさ。だから本当の僕がどういう人間なのかなんて、誰にも知ってもらえないまま、そういう僕って孤独な存在なんだ、なんて事にも気が付かないまんまで、一生を終っちゃったじゃないかなぁ、なんてね、思う。だから本当に最初はどうなっちゃうんだろうとか思ったけど、きみと出会えてラッキーだった。電話だからね、こんな事話せるのは」
この悠季の語りを初めて聴いた時、不覚にも泣いてしまったんです。今聞いても泣かないですし、こうして文字にしてみると更に泣く程の話ではない気がするんですが、目で文章を追うのと違って、耳から入ってくる語りかけは、何だか色々とグルグルしていた当時の自分には、思わぬ不意打ちだったんです。
JUNE小説とは結局、人間の孤独、見すてられた幼な子の孤独、救い、愛、妄執、他の存在への「思い」、そういったものにつきつめられてゆくのだなあと思う。・・・人と自分、自我と自我、愛と孤独。・・・そういう「思い」があること、それを人に伝えたいとのぞむこと、それが大切なのだ。
と、『小説道場』で中島梓先生は言っておられましたが、それを提示して、尚且つその「思い」を肯定的に捉えてやがて報われるものとして語る、それがフジミという物語なのだと思います。そこが古典的JUNEとは少し違っている所かもしれませんね。上の悠季の話は、それを随分と解りやすく語ってくれている訳で、ある意味説明的過ぎるとも言えるくらいです。それがかえって、当時の私には泣けた原因だったのかもしれません・・・。

人間はそれぞれに孤独な存在であるわけですが、他者との関係を密にして、かえってそれを自覚してしまうのが怖いこと思うこともあります。ポーカーフェイスという仮面で唯我独尊を装っていた圭も、八方美人という仮面で人当たりの良かった悠季も、どちらも無意識に(かな?)理性で他者を拒絶していました。でもそれは、内なる魂が希求する他者との関係から目をそらすことであり、その思いが強いからこその臆病さでもありました。

そんな二人が出会い、張り巡らしていたバリアを壊して、自閉的な安全地帯から出てでも向き合いたいと思ったこと、互いがその後押しをする存在に成って行くこと、そんな理想的な相思相愛の姿がそこにはありました。現実の人間関係では中々実行出来ない、だからファンタジーだと思うことも、己の不甲斐なさを自覚させられることもありましたが、そこに癒しを感じていたことも確かです。
スポンサーサイト
別窓 | 秋月こお | コメント(0) | トラックバック(0) | ↑top
<<隣の彼 | ホーム | フジミ回顧録「コン・マスの光と影」>>
コメント
↑top
コメントの投稿














管理者だけに閲覧

↑top
トラックバック
この記事のトラックバックURL

FC2ブログユーザー専用トラックバックURLはこちら
↑top
| グラス・エイジ |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。